連城三紀彦『白光』読了


白光

白光


 ある夏の日、複雑な人間関係が行き交う家庭で一人の少女が殺害された。彼女の遺体は池を作るため庭にあけられた穴に埋められていた。当時、その家にいたのはその少女と少女の親類に当たる老人のみ。犯人は当然、その老人と見られていたが……と言うお話。

 
 普通に考えればその老人しか犯人はいないわけですし、そうでないとしても話を聞けば何らかの手がかりを得ることができそうなものですが、その老人は数年前から認知症のような症状を見せていて、その証言は果たして事実なのか、それとも妄想なのかがはっきりしないわけです。その上、新たな目撃証言が出てきて、捜査は停滞してしまい……と書くとまるっきりミステリのようですが、胸を張って「ミステリです」と言える作品ではないですね。普通小説というか、犯罪を取り扱っているけど、さほどその犯罪を中心に物語が進むわけではないというか、そんな感じ。


 では、何を中心に物語が進むかというと、これは前述した「複雑な人間関係」なんです。しかし、この人間関係というか、描写のセンス(とまで言っては失礼か)がいささか古い。
 「出来が良い姉」と「自由奔放な妹」までは良いとして、(妹が)カルチャーセンターの講師と浮気、そのことについて気の弱い義弟から相談を受ける姉、実は義弟は前からこの姉に心を引かれていて……とくると、それ、なんて昼メロ? といった感じになってしまいます。
 これに姉の夫の浮気、舅の認知症、嫁姑の確執なんかも加わって、それ、なんておもいっきり生電話? 状態になってしまい、比較的若い読者である僕はこれだけで疲れてしまいます。

 人物に関しても「そうかしら、そう思われていたとしたら心外だわ。だって、私だって一生懸命やっていたんですもの」みたいな感じの女性の話し方なんかみると、やっぱり古いなぁ、と。描かれたのは2002年だけど、80年代の連城さんの作品*1と比べて、さほど人物の描かれ方が変わっていないのはどうかな、と思ってしまいました*2


 と、まぁ、割ときついことを描いてしまいましたが、「小説」としてみたら描写の冗長さと相まって割と退屈に感じてしまう部分もあります。が、ラストに向かって加速度的に描かれていく真実や「誰が彼女を殺したのか」という問いに対する答えの変遷の描き方はさすがは連城さんといった感じで素晴らしかったです。


 上でこの物語の中心は「人間関係」だと言いましたが、それは間違いではありません。ですが、同時に「誰が彼女を殺したのか」という問いも常に物語に付随しています。
 それは登場人物全体を俯瞰する位置で、あるいは影を落とすように、あるいは偽りの安定を保った家庭の、その欺瞞を照らし出す、強く激しい白光を浴びせるかのように、そこに存在しているのです。

*1:『夜よ鼠たちのために』とか

*2:こう描いていてふと、北村薫さんを思い出した。彼の描く女性も古くないか? と言われるかもしれないが、彼の場合は「私」も含めて、そんな奴いないよ、といった感じの女性だから、さほど問題にならないのだと思う。逆に、この作品の場合は「どこにでもいるような女性」といった描かれ方をされているようだから、その不自然さが際だってしまった感がある