ニートに関する考察

 こんなエントリを読みまして、ふむふむと思ったわけですが、そうか、ニートの方々は合理的だったのか、と思いましたが、しかし、どうなのだろう。僕は仕事は目的があって、初めてするものだと思ってしまうので、それが『「個人が自発的に演じうるものではない」ところの社会的行動のひとつ』と言われると首をかしげてしまうのですよねー。

 今、サラリーマンとして働いてる方々は「何だかよく分からないけど働いている」のだろうか。たとえその労働が賃金に十分に反映されてるとは言えなくても、「何となくそうしちゃう」的に働いているのだろうか。僕はそれは違うと思うんだけどなぁ。

 例えばニートは「学ぼうとしない人」も入るのらしいけど、じゃあ、「学んでいる」人達は「何だかよく分からないけど勉強しちゃうんだよね」という、まだ受験戦争時代の習慣から抜け出せてませんか、みたいな人じゃなくて、○○という資格を取りたいから勉強する、とか○○に興味があるから勉強する、みたいな人が殆どだと思うけどなぁ。

 上のエントリでは「賃金と労働は均衡しない。」→「労働は他者への贈与である」→「贈与という行為は合理的ではない」→「それをしないニートは合理的だ」みたいな論理構造を持ってるようだけど、労働は他者への(労働時間の)贈与であるが、同時に自らの金銭収入も約束するわけだから、それが仮に等価でなくとも、時間が余っている労働者が、それを必要としている企業にそれを「売る」のは合理的だと思うけどなぁ。
 もちろん、(ニートが)金銭をそれほど必要としておらず、時間の方を重要と捉えている(としたら)、彼らが労働時間を売らないのは、それはそれで合理的な行動だと思うけど。

以下、前述のエントリの要点。

賃金と労働が「均衡する」ということは原理的にありえない。
人間はつねに「賃金に対して過剰な労働」をする。

(中略)

「勉強も仕事も、なんか、やる気がしない」というのは、言い換えると、「『やる』ことの『意味』が私にはよくわからない」ということである。
彼にとって、問題は「意味」なのである。

(中略)

NEETというのは、多くの人が考えているのとは逆に、「合理的に思考する人たち」なのである。
彼らの世界は「意味のあること」に満たされていなければならず、彼らが他者ととりむすぶ関係は「等価交換」に限られている。
適正な支出に対する適正な(あるいは支出を超える)リターン。
それ以外の取引形態を彼らは望まないし、そのような取引をする人間の「動機」を想像することができない。
「今は特に学びたいことも、やりたい仕事もない。
家にいれば、とりあえず雨露はしのげて、ご飯は食べられる。
親が生きている限りは、この状態がキープできる見通しである。
親が死んだら、そのときに状況を勘案しつつ、オプティマルな対応策を立案すればよい。」
きわめて合理的である。

(中略)

彼らの盲点は、(中略)「仕事」というのが「とりあえず何か余計なものを作りだして、他人に贈る」という「非等価交換」であるということに気づいていないという点である。
いや、気づいていないのではなく、あえて見落としているのである。
なぜなら、彼らの「合理的思考」は、彼らを扶養している親たちの「非合理的な」子どもへの「愛」や「有責感」に依拠しているという事実は「勘定に入れない」でいるからである。
自分は「他者からの贈与」に依拠して生きているが、自分が「他者への贈与」の主体になること(それが「労働」ということの本質である)を拒否する。