あらあら

 先日から読んでいて、今もたまに読んでいる新書、『司法のしゃべりすぎ』

司法のしゃべりすぎ (新潮新書)

司法のしゃべりすぎ (新潮新書)

 の著者、井上薫判事が何やら揉めているらしい
 

 「司法のしゃべりすぎ」の判事「判決短すぎ」減点評価  (読売新聞(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051031-00000101-yom-soci))

 結論と無関係な記述は判決文から省くべきだと主張する「司法のしゃべりすぎ」の著書で知られる横浜地裁井上薫判事(50)が、上司から「判決理由が短すぎる」とのマイナス評価を受け、「裁判官の独立を侵害された」とする不服申立書を同地裁に提出していたことが30日、分かった。

(中略)
 
 井上判事は任官20年目で、昨年4月、横浜地裁に赴任し、交通事件などを担当。読売新聞が入手した最近の井上判事の判決文には、事実認定や法的判断のほとんどを当事者の主張の引用で済ませ、理由は十数行だけと非常に短いものがある一方、参考となる裁判例として判例雑誌で紹介されたものもある。

 判決文のうち、結論を導き出すのに必要のない傍論部分は「蛇足」で不要だというのが、井上判事の持論。昨年4月、小泉首相靖国神社参拝について福岡地裁が傍論で違憲判断を述べた際には、批判論文を週刊誌に寄稿した。

 判例なんかは割と短くまとめてあったりするのを読むことが多いので、判決文全体を読むことはあまりないのですが*1、新聞なんかにたまに載ってるのを見ると、一面の半分くらい使ってても中略、中略、みたいな感じで短くしてあるみたいなので、十数行というのはやはり相当短いのでしょうね。読む側からしたら短い方が論旨が捉えやすくてありがたいのですが(苦笑)。
 
 『司法のしゃべりすぎ』で井上さんが主張していることもある程度理解できて、例えば記事の中で出てきた福岡地裁の判決は、「首相の靖国参拝憲法違反だけど、参拝によって原告に被害はないわけだから提訴は棄却」といった感じだったと思うけど、国が「それは違うでしょ」と思っても控訴できないわけです。何故なら、(原告の要求が通ってない以上)控訴しても国に利益はないから。
 でも、この場合、首相の靖国参拝違憲であるかどうかに関わらず、「参拝によって原告に被害はない」わけだから、前者については判断せず、後者についてのみ判断し、それを判決理由にすべきだ、というのが井上さんの主張。
 まぁまぁ、それくらい良いじゃんと思われるかもしれないけど、『司法のしゃべりすぎ』ではかなりパンチの効いた架空の例が用いられている。それはO・J・シンプソン事件みたいなケースで、Xという人物が無実にもかかわらずYという人物に対する殺人罪で逮捕され、刑事裁判にかけられた。が、何とか無罪を獲得。やれやれと思っていたらば、その二十数年後、Yの息子を名乗る人物から、「父親を殺したのだから、損害賠償をして欲しい」と今度は民事で訴えられる、みたいなケース。刑事と民事では被告(人)に求められる立証責任の重さが違い、上のO・J・シンプソン事件のように司法の判断が逆転する場合もある。X氏の事件の場合もそうなってしまい、裁判所はX氏がY氏を殺害したことを認定してしまった。
 「ちょっと待てよ」とX氏が控訴しようとしたが、それは出来ないと言われる。何故なら、裁判所は「X氏はY氏を殺害したため、賠償責任が生じたが除斥期間が経過したため*2、その請求権は消滅している。よって、X氏はY氏の息子に損害賠償をする必要がない」という判決を下していたからで、控訴してもX氏に利益はないから、と控訴を受け付けて貰えないのだ。
 片やY氏の息子は「やったよ父さん」とむせび泣き、近所の評判はがた落ちどころか、もはや犯罪者を見る目だ。そもそも上の判決の場合、X氏が犯人であろうがなかろうが、除斥期間が経過していれば損害賠償はしなくて良いわけだから、裁判所の判決文の前半部は全くの蛇足だろう。
 このような蛇足の部分を調べるための時間を有効に使えば、もっとスピーディに審議を進められるのではないか、というのが井上氏のおおまかな主張で、それ自体は頷ける部分もある。が、やはり実務家の方から見たらこんな意見もあるようで、どっちがよりスピーディなのかは難しいところですね。

 そういえば井上さんは前出の福岡地裁の判事から「週刊誌で自らの判決を非難されたのは名誉毀損に当たる」として訴えられてたみたいですね。東京地裁が訴えを取り下げてたみたいですけど。そういった意味では「お騒がせ」なのかなぁ。

*1:単に僕が不勉強なだけやも

*2:不法行為後、20年が経過した場合損害賠償請求権は失われる……らしい