文章の難易度と読者への媚び、諂い

 我らが文芸研では最近、読書会というのが行われて、作成した同人誌に関して部員があーだ、こーだと言う会なわけですが、今回(というか、前回も)、寄稿してない私としては割と気楽な立場で臨めてたりします。
 1週1作品ずつで、大体2時間程度やってますが、そんな中での出来事。

 今日のお題は難解というか、独特というか、部員の中でもトップクラスに純文系の空気を漂わすラ・杜若くんの作品、『我が最愛の恋人に捧ぐ』。タイトルから想像される甘甘な展開は一瞬もなく、「憑き物が落ち」絵を描けなくなった画家が「自らの最愛の恋人」であるところの、「不安、狂気(=創作意欲)」を今一度求める作品……なんだと思う*1

 これに対して「文章が読みにくいので、表現を改めたらどうか」という意見が出たのだが、それに対する作者の意見が「俺は作品のために作品を書いてる。読者に媚び、諂って表現を改めるのは何より作品に対する冒涜だから、そんなことをするつもりはない。むしろ、そのような意見は読者の傲慢ではないか」というものであって、これから議論は紛糾したわけですが、なかなか興味深かった。

 それぞれの依って立つところ、「何(誰)のために小説を書くか」根本的なスタンスによる意見の違いはスリリングでもあり、面白くもあった。「作品のため」、「自分のため」、「読者のため」、スタンスは各人各様であり、それがかいま見れただけでも良かったと思う。

 因みに私が述べた意見の要旨は
「仮に天安門広場やイギリスのハイド・パーク*2で「夕日の馬鹿野郎」と叫ぶ男がいたとする。
 男は日本語で言ってるわけで、聴衆は何を言ってるか分からない。彼らは彼らに理解できるようにするよう求めるだろう。「The setting sun is fool guy」といえば彼らに伝わるかもしれない。でも、男は「夕日の馬鹿野郎」と叫びたいわけで、英語で何か叫びたいわけじゃない。
 だから、この男に英語で叫ぶことを強要するのは何か違うと思う。

 もちろん、そのことにより聴衆に伝わらないこともあるだろうけど、それは男が選んだ結果だから仕方ない。民衆の理解を求めるか、表現することによる自らの喜びをとるかは表現者の勝手だろう」
 というもの。

 商業誌なら別なんだろうけど、同人誌だし、ええやん、みたいな。
 
 突拍子もない比喩+適当な意見で呆れられたに500ペソ。

*1:いや、仮託と修飾と抽象が混じり合って分かりにくいんですって

*2:スピーカーズ・コーナーというのがあって、(エリザベス女王の悪口以外なら)誰でも何でも自由に演説できる