ゲームは小説や映画を超えることが出来無いか1

 昨日、チャットでちょっと話題になりながらも、回線の都合で言葉足らずになってしまったので、ここで補足というか、僕なりの立論を。

 昨日は「ゲームのストーリー性」というのが議論の俎上にあがっていたわけですが、ゲーム派(?)は、「ゲームの中にはストーリー性が高いものがあり、それは(ストーリー性の高さにおいて)映画や小説を超えるのではないか」という立場をとり、これに関して映画・小説派は「それはない」という反論をしていたわけですが、議論を見た感じ、どうも「ストーリー性」というもの自体があやふやで、議論が上滑りしている感がありました。
 「ストーリー性とは何でしょう?」という質問を投げかけたところ、返ってきたのは「感情移入できるかどうか、おもしろいかどうか」や「ドラマ(性?)」といった感じの答えが返ってきましたが。
 しかし、「感情移入」や「面白さ」では定義としていささか客観性に欠け、議論にならないような気もします。「感情移入できるかどうか」や「面白いかどうか」が「ストーリー性」と同義であるならば、何も「ストーリー性」という言葉を使わなくても、「ゲームの方が感情移入できる」、「いや、映画の方が面白い」という風な議論をすればいいわけであって、そして、そのような議論が果たして「議論」たり得るかというと、それはNoでしょう。それだと、唯の感想の言いあいでしかない。

 ストーリー性=ドラマ性としても、これはただ言い換えてるだけで、「それじゃあ、ドラマ性って何ですか?」という話になってしまう。これはこれであやふやすぎて議論には使えない。

 では、「ストーリー性」をどう定義しよう。ここで困ってしまったわけだけど、ストーリー性と対極の概念「ゲーム性」を仮想することで、解決することが出来る気がします。

 では、「ゲーム性」とは何でしょう。これは、極論すると「自由度」ということになるでしょう。映画や小説にはこの「自由度」は殆どありません。1ページずつ飛ばして読もうが、映画館で逆立ちしようが、物語自体のストーリーに変更はありません。
 ですが、ゲームは違います。「ボスを倒す」だとか、「Aちゃんとではなく、義理の妹と下校する」だとか、「星は好きですか」と聞かれて、「興味ない」と答えるか、「嫌いだ」と答えるかだとか、そういった違いによって、ストーリーは変化します。
 もちろん、小説でも読み手の自由度を高めようとする試みがないわけではありません*1。ですが、それらはきわめて特殊なものですし、読み手に選択肢を突きつける山口雅也氏の『13人目の探偵士』の出自はゲームブックです。

 さて、ゲーム性≒自由度を上で論証したわけですが、ゲーム性とストーリー性を対極の概念として定義した場合、「映画などと比較した際、自由度が高いゲームは(映画などと比べると)ストーリー性が低い」というのはトートロジーな感じで、今更言うことでも無くなってしまうんですね(苦笑)。
 ですから、「ストーリー性」でゲームが小説に勝つ(=ゲーム性で小説に劣る)のはほとんど無いでしょう。

 ただ、ゲーム性とストーリー性を対極の概念としたとき、ストーリー性というのは「それがいかに「物語」っぽいか。」という定義(あるいはそれに近いもの)になってしまい、「物語(ストーリー)」そのものである小説と比較すること自体、ナンセンスでになってしまって……この視点で、映画や小説とゲームを比較するのは無意味な気がします。

 眠くなったので、今日はここまで。続きは明日にも書く予定と言うことで。

*1:流水さんの「コズミック」・「ジョーカー」の文庫本とか