生まれて初めてアニメのポスターを買いました

 いや、ホントに。なんかおまけで付いてきたplanetarianポスターとか、友人がくれたTH2のいいんちょポスターとかが手元にあったりはするが、どちらももらい物だし、しかもゲームだし。ということで、アニメのポスターを買うのは正真正銘初めてだったのです。とはいえ、最初はたいしたことではないと考えていました。クールにさらっと番号を言って、代金をトレーの上に置く。それだけで良い……はずだった。
 が、僕はふと考えてしまった。もし在庫がなかったらどうしよう。格好良く代金を置いたは良いが買うものがないという姿はあまりに間抜けで滑稽で、そうなった自分の姿を想像した僕は思わず身震いした。まずは在庫があるか確認しよう。そう考えたのが間違いだった。


 店員というものは特にアルバイトの店員というのは一種のマニュアル化された受け答えに特化されている部分がある。即ちアレをください、コレをください、1000円からお願いします、などいかにも買い物の中で出てきそうな遣り取りには俊敏に答えてくれる。しかし、一歩そこからはずれたら、しかもそれまでルーチンワークのように続けていた中で一人だけその和を乱す者がいたら……その対応はいくらか遅れる可能性も出てくるし、また上手くいかない可能性も出てくる。そして、私の質問は店員のルーチンワークの外にあった。


 たとえ一言目が通じなかったとしても、落ち着いていれよかったのだ。私は犯罪者ではなくお客様である。聞き取れなかったのは店員の不始末で自らに恥ずべきことは一点もない。そんな強気な気持ちをもっていれば良かったのだ。だが、私はそうではなかった。生まれて初めてアニメのポスターを買うという行為、その行為を恥ずかしく思い、焦っていた。そして、その焦りが――私の声を裏返らせていた。


 この瞬間の私の絶望をどう表現すればいいだろう。その瞬間の私の姿は酷く滑稽で間抜けで、私がときたま訪れるアニメイトとらのあなメロンブックスでたびたび見かけながら、ああはなりたくないものだなと思っていたノーマルオタクそのものの姿で、それまでの私がエリートオタあるいはノーブルオタとして築いてきた矜恃やプライドといったものが粉々に壊れたのを私は感じていた。


 惨めなことに私はポスターの大きさの目算すら誤っていた。丸めたポスターはA4のブリーフケースに入るはずもなく、鞄から顔をのぞかせて持ち主がオタかあるいは季節はずれのカレンダーを持ち歩く変な男のどちらかであることを主張し続ける。好奇の視線に晒されるのを避けるため、また手に入れたポスターが万が一にも曲がることを防ぐためにも早く自室へ戻りたい。こころから願ったその願いはしかし、三重を襲った地震、そしてその余波により20分ほど出発が遅れた電車により無惨にも打ち砕かれた。4人がけのボックス席の三方を女性に囲まれた私はどうか彼女たちの好奇の視線が私に降りかかりませんようにとただひたすら祈り続けたのであった。

 MT奮闘記その1

 その2以降があるかは不明。
 現在はMovableType導入の後、見栄えを整える作業を行っている。3カラムリキッドのMax800、Min400の設定にしてやってみると、トップページは上手くできた。良かった良かったと一息ついたのもつかの間、何故かアーカイブページではうまくいかない。それどころか、ダークブルーの背景に黒文字と読めねぇじゃん配色になっている。これはいかんと手直ししてみたが、文章自体は読めるようになったものの未だ1カラムでしか表示できない。スタイルシートとか苦手だから、作業が遅々として進まないのだけど、やっぱり勉強しなきゃいけないのかなぁ。

 地震

 昨年でしたか、福岡西方沖地震というのが三月の中頃にありまして、これも日曜日の午前中だった覚えがあります。今日は能登半島沖で大きな地震があったとのことで、被災地の方々の無事と平常の生活が早く回復されることを願ってやみません。奇しくも石川県は我らが能登麻美子先生の出身県ということで、ご本人の無事はもとよりご親族あるいはご友人の安否まで心配してしまう俺きめぇ。


閑話休題

 しかし、昨年といい今年といい同じような時間帯に地震が起こったため、NHKの将棋番組がつぶれてしまう(別時間に移されてしまう)ということになってしまい、一週間に一度、二時間しかない番組が二年続けてそうなってしまうということに、何となく良くないものを感じてしまいます。昨年は名人戦問題*1、今年は女流棋士独立問題と一歩間違えれば将棋連盟そのものの権威をがくんと落としてしまいかねない問題が起こっている*2訳で、お払いの一つも受けたが良いのではないかと思うのです。

*1:実際に問題が表面化したのは地震の後でしたが

*2:というよりも好んで起こしている。前者は良いとしても後者の問題はその感が強すぎる

入浴後階段を上ったら

 もの凄く動悸がして、ちょっとやばいんじゃないかと思った。いくら長風呂でのぼせてたとはいえ、まだ二十代前半だぞ。そんなに衰えてちゃ駄目だろうと。
 はっ、まさかこれも孔明の罠か!?

 感想と批評

 脊髄反射で思いついた文章なので簡単に。
 槍沢さんのところで紹介された文章を読んだのだけど、何か話が噛み合ってないような気がして、何でかなぁと考えた結論が「感想と批評は違うんじゃないかな」というものだった。


 もしかしたら僕だけがそうなのかもしれないし、それはそれで恥ずかしいことだけど、「批評は難しいものだ」って印象が僕にはある。それはいつぞや殊能先生が「「批評家は頭が良くないと出来ない」って柄谷行人が書いてた」みたいなことを書いてあったのを読んだから、というのもあるが、ようは「歴史や変遷、ビッグネームが後世に与えた影響と個々の作品におけるそのことの具体的発露」みたいな「批評」なんて俺に書けるわけないぜなどと思うからだ。


 でも、感想なら僕にも言える。小説を読んだり、あるいは音楽を聴いたり、お笑いを見たりして、それに対する快・不快を言葉にすることは出来る。もちろん、ジャンルによっては理由も上手く言えず「何か合わないから駄目」みたいなことしか言えないこともあるかもしれない。それでも、それだけ言えれば十分、感想になりうる。
 発端となったエントリにおける女の子の一言ってのはこの「感想」だったんじゃないかなと思う。


 じゃあ「感想」と「批評」ってどう違うのよと言われたら、それはその言説における客観性と主観性の割合じゃないのかなと。主観性が強いのが感想。だから、感想を読むときには括弧書きで(僕自身は)、あるいは(私自身は)などを補って読む必要がある。逆に、批評は客観性を強めようとした言説だろうと考える。だからこそ前述のように理論武装が必要になってくるのだと思う。
 もちろん、僕は両者の中間のような文章も存在すると思うし、僕自身が書く書評はそういった文章になればいいなと思って書いている……というのは蛇足ですか。


 だから、「何故、簡単に批評をするのか」という問題提起(?)は根本から間違ってると思う。感想なんだから簡単に断言しても良いのではないかと。「このたこ焼き美味しい!」って言うのを「勝手に断言してんじゃねぇ!」と怒られたら困るしね。それに「アレつまんないよね」を批評って言ったらプロの批評家さん達が泣いちゃうよ?


 ただ、一方で「何故、面白いのか考える人が少なくなってる気がする」という問題提起は面白いなと思った。その辺りも各種エンタメの際限なき垂れ流しという現状がなせるものだととりあえずの仮説を立てることは出来るのだろうけど。